ワケあり法話…
実はこれまで法話もいろいろと書かせて頂いておりますが、当然 中には「不採用」となった原稿もあったワケです。
それでは勿体ないので、今回ちょっと「蔵出し」させて頂きます。
『心映す鏡』
四捨五入…数字を概数にする際に、一つ下の位の数を見て4以下ならば切り捨てるんですよね。
私達は生きています。多分明日も命あるのでしょう。絶対とは言わずとも大体は合っています。だから普段は死を意識しません。いえ気付かぬうちに死を無視し続けています。でも死は自分にとって無視出来る程小さいことではなく、多少の誤差だと済ますわけにはいかない事実です。
数字は四捨五入して丸めることで扱いやすく出来ますが、「人生」は死を捨てること『死捨』によって丸く収めることは出来ません。
死を見つめることは生を見つめることであり、即ち生きている今の自分と真っ正面から向き合うことです。それは辛く面倒であり、また自分で自分を客観的に見ることは困難です。だからこそ仏法が鏡となって我を映して下さるのです。
「死捨」はもちろん、「私捨」が出来ない私には、今「悟入」は無理のようです。唯、「掛け値無い」我の姿に出遇えた時に、大体でない本当の人生が始まります。これは間違いない仏法の事実です。
ちょっと「数学」にこだわりすぎて難しくなり、又内容に無理が生じてしまったようです。
でも勿体なかったのでお目に掛けて頂きたく…御読み頂いたこと幸いです…有り難うございます。
それでは勿体ないので、今回ちょっと「蔵出し」させて頂きます。
『心映す鏡』
四捨五入…数字を概数にする際に、一つ下の位の数を見て4以下ならば切り捨てるんですよね。
私達は生きています。多分明日も命あるのでしょう。絶対とは言わずとも大体は合っています。だから普段は死を意識しません。いえ気付かぬうちに死を無視し続けています。でも死は自分にとって無視出来る程小さいことではなく、多少の誤差だと済ますわけにはいかない事実です。
数字は四捨五入して丸めることで扱いやすく出来ますが、「人生」は死を捨てること『死捨』によって丸く収めることは出来ません。
死を見つめることは生を見つめることであり、即ち生きている今の自分と真っ正面から向き合うことです。それは辛く面倒であり、また自分で自分を客観的に見ることは困難です。だからこそ仏法が鏡となって我を映して下さるのです。
「死捨」はもちろん、「私捨」が出来ない私には、今「悟入」は無理のようです。唯、「掛け値無い」我の姿に出遇えた時に、大体でない本当の人生が始まります。これは間違いない仏法の事実です。
ちょっと「数学」にこだわりすぎて難しくなり、又内容に無理が生じてしまったようです。
でも勿体なかったのでお目に掛けて頂きたく…御読み頂いたこと幸いです…有り難うございます。