葬儀って…

今日の某社の新聞広告です。概略を紹介します…

『葬儀って、終わったあとが面倒よね!』
 頼り切っていた主人が亡くなり、葬儀だけでもよくわからないことだらけ。心も身体もどっと疲れてしまって やっと落ち着けるかと思ったら、今度は四十九日法要ですって。
〈中略…お墓の心配事が書かれています〉
 さらには月命日やら一周忌やら…こんな面倒なこと、一体いつまで続くのかしら。
 もう!誰か最初に全部教えておいてちょうだい!

 奥様の『本音』がよく出ている広告ですね…この広告の中のどこにも「悲しい」「寂しい」などの表現は出てきません。まあ、人様の感情にまでこちらがとやかく言う権利は無いですが…。
 
 僧侶としては問題発言かも知れませんが、敢えて申し上げます。
「夫の(妻の)葬儀や法事がメンドくさいなら、一切やらなくて良いですよ!」
 何ならこの部分コピーして、それこそ「メンドくさい親族」に見せつけてやって下さい。正真正銘の坊さんが言ってるんだから、と…もう大丈夫!
 ではお連れ合いの死後が面倒なお方は、今の自分も、身体も心も面倒じゃないですか? メンドくさい…でも、思っても言えないですよね…口に出してしまうと、とんでもないコワイ答えが返ってきそうでしょう?
 自分はメンドくさいのです…この老いた、病多き身体も、幾つになっても腹が立ち、時に無性に寂しくて、誰かと話をしたいけれど聞いてくれる人もない…。面倒でしょう? でも面倒な自分で生きていくしかないのです。誰も自分と代わってくれないですし、自分も変われません。
 面倒な法事はどうでも良いです…面倒な気持ちで法事勤めるなら、まだ勤めない方が精神衛生上よろしいでしょう。
 でも、面倒な自分からは逃げられません。面倒な自分を生きない、止めた、止めとこうか…とかいかないのです。
 そんな面倒な自分に、トコトン付き合い、生きるの面倒だなんて言わせないとおっしゃるお方を仏様と申します。私の人生が心配で仕方ない、だから離れない、見捨てないお方です。
 それこそが、あなたのめんどくさがっているお連れ合いの今の御姿なんですよ。
 このブログご覧になって、ご気分害されましたら、どうかお許し下さいませ。


 

習慣…

 夜走っています…20分ほどですが。時に男子高校生?に風のように追い抜かれながらも…。
 走り始めると、体重が増えていれば「てきめん」です。1㎏増えたら、1㎏の鉄アレイ持って走っているようなものですから当たり前といえば当たり前ですね。疲れます…如実に体が重く感じられます。
 ですからどうするか…食べる量を減らそうとします。だって走ったときに体が辛いですから。
 ここですね…大事なのは。
 「体重が重くなると走るのが辛くなるから→たくさん食べるのを止める」
 「体重が重くなると走るのが辛くなるから→走るのを止める」
 どちらを選択するか、どちらが体に良いか…です。
 これには走ることを習慣づけるしかないみたいです。
 その為には走ることで自分に何らかのご褒美をあげるのが良いようです。といっても食べ物とかお金とかでなく、「気持ちよい汗かいた」「楽しかった」「ネコに出会った。可愛かった」「ここにこんなものが出来た」などのささやかな喜びを自分で感じることです。
  そのうち、特に何も得る物が無くても『習慣』になってしまっていれば、走らないと気持ち悪いみたいな感覚になります。
 …と、なにかこう、優等生的なことを書きましたが、もちろん雨降れば走らないですし、美味しいものあれば食べてしまって体が重くなるなんてしょっちゅうです。
 でも、まあ、継続が大事なんでしょうね…休みはしても、完全には止めない…これなんでしょうね。
 なんでもそうですね…御念仏も同じです。聞き続けることがとても大切です…何か、少し無理矢理でしたが…。 

仏教は学ぶものか…

 ネット上で、とある仏教講座の広告が掲載されていました。
 仏教に人生を学ぶ、仏教を生活に活かす…現代人にとって魅力あることかと思います。
 でも、仏教を学んで、それを生活や仕事に活かすという触れ込みにちょっと疑問を感じるのです。
 もともと仏教の目指すところは「さとり」です。悩みや苦しみからの解放です…それは自身の執着を捨て去ることそのものです。
 そのためにそもそも仏教教団においては仏道修行を行ったのであって、その修行の妨げにならないように出家したのです。
 出家とは家を出ることであり、それはそのまま社会から出ることでもあります。
 仏教は社会規範でなく仏法に則って生きることを説き、ある意味社会を捨てる教えです。
 その割には、托鉢などして市井の人から食事をもらうとは何事だ…でも、修行で求めるのはさとりのみ。ですからご飯を作ることも、食材を育てることも仏道には関係無いのです。ただ生きていないとさとりを開くことが出来ないので、食事を取るというだけのことなのです。
 托鉢で食事を受けることが出来なかったら、その日の食事はどうするのか? 食べません…食べるものがないのですから。何日も食べられなければ…さとりに至らぬまま死を迎えることになります。
 仏教って出家って、これ程までに厳しく、シンプルで、ある意味清々しいものなのです。
 だから、どうも仏教を生活に活かすという表現に引っ掛かるのです。
 私自身は俗世間にドップリはまって暮らしている出家ではない僧侶です…浄土真宗の僧侶は皆そうだと言えるかも知れません。
 そんな立場でも、どうしても仏教を学び、仏教を活かすという表現に抵抗感があるのです。
 仏教は自らが縁あって出遇い、そして頂くもの…それに尽きるのではないかと思います。 
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